東京高等裁判所 昭和59年(行ケ)50号 判決 1986年7月10日
原告
キヤタピラー三菱株式会社
被告
特許庁長官
主文
特許庁が昭和55年審判第15319号事件について昭和58年12月1日にした審決を取消す。
訴訟費用は被告の負担とする。
事実
第1当事者の求めた裁判
1 原告
主文同旨の判決
2 被告
「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決
第2請求の原因
1 特許庁における手続の経緯
原告は、昭和51年6月24日、名称を「鉄製品用表面処理剤」とする発明(以下「本願発明」という。)について特許出願(昭和51年特許願第73804号)をしたところ、昭和55年6月11日拒絶査定があつたので、同年8月21日審判を請求し、昭和55年審判第15319号事件として審理された結果、昭和58年12月1日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決があり、その謄本は、昭和59年1月18日原告に送達された。
2 本願発明の要旨
リン酸アルカリ塩70~95重量%、メタリン酸1~15重量%及びモリブデン酸アルカリ塩0.1~3重量%の混合物に、該混合物100重量部あたり5~15重量部の臭素酸アルカリ塩及び適量の界面活性剤を配合して成ることを特徴とする鉄製品用表面処理剤。
3 審決の理由の要点
(1) 本願発明の要旨は、前項記載のとおりである。
(2) ところで、昭和45年特許出願公告第16567号特許公報(以下「第1引用例」という。)には、「リン酸アルカリ塩70~95重量%、メタリン酸1~15重量%及びモリブデン酸アルカリ塩0.1~3重量%の混合物に適量の界面活性剤を配合して成ることを特徴とする鉄製品用リン酸鉄系皮膜化成表面処理剤」が記載されている。また、昭和50年特許出願公開第39646号公開特許公報(以下「第2引用例」という。)には、従来技術として、リン酸鉄系皮膜法に用いる処理液の組成としてアルカリ金属の酸性リン酸塩に界面活性剤を配合して成るものに酸化剤、たとえば塩素酸塩、臭素酸塩、タングステン酸塩などを添加したものが記載されている。
(3) そこで、本願発明と第1引用例記載の発明とを比較すると、両者はリン酸アルカリ塩を主成分とする鉄製品用表面処理剤であり、副成分としてメタリン酸1~15重量%、モリブデン酸アルカリ塩0.1~3重量%及び適量の界面活性剤を含む点で一致するが、本願発明の表面処理剤は更に適量の界面活性剤を除く前記各成分の混合物100重量部あたり5~15重量部の臭素酸アルカリ塩を含む点で、これを含まない第1引用例記載の発明と相違する。
前記相違点について検討するに、従来リン酸鉄系皮膜法においてアルカリ金属の酸性リン酸塩を主成分とし、これに酸化剤として臭素酸アルカリ塩を添加し皮膜化成を促進することは、第2引用例をあげるまでもなく当該技術分野において周知の事項であるから、本願発明のように前記主成分に加え各所定量の副成分を含有する処理液に対し、酸化剤として臭素酸アルカリ塩を添加することもその目的等に応じ当業者が適宜なしうるものと認められる。
また、その酸化剤としての臭素酸アルカリ塩の添加量を限定した点について、明細書中にはその限定理由として、下限値未満では添加効果がうすく、上限値を超えて多量に使用してもそれに伴う格別の効果がない旨記載されているとおり、単に添加効果を達成しうる経済的な量に限定したにすぎず、このような添加量の限定に格別な技術的意義があるとは認められない。
ところで、本願発明は「表面処理剤」そのものの発明であるが、その効果について検討するに、明細書中の実施例1の表には本願発明と第1引用例記載発明との処理温度と皮膜の耐食性との関係が記載されており、処理温度が近接したものを比較するとほぼ同様な耐食効果を示すから、両者には発明の効果においても格別の差異が認められない。
なお、本願発明では処理温度の範囲が低温域まで拡大されるが、これは単に酸化剤としての臭素酸アルカリ塩を添加したことにより皮膜化成の促進とともに過熱に匹敵する効果が生じ処理温度の低下がもたらされたものであり、かかる事項は容易に予測しうる事項にすぎない。
したがつて、本願発明は各引用例の記載に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものと認められるから、特許法第29条第2項の規定により特許を受けることができない。
4 審決の取消事由
第1引用例及び第2引用例には、審決認定のとおりの技術内容が開示されていること、本願発明と第1引用例記載の発明との間に審決認定のとおりの一致点、相違点があることはいずれも認めるが、審決は、右相違点について判断するに当たり、本願発明において酸化剤としての臭素酸アルカリ塩を添加することは当業者が適宜なしうる事項ではないこと及びその添加量を限定した点に十分な技術的意義があることについての判断を誤り、かつ本願発明の奏する顕著な作用効果を看過誤認したものであつて、違法であるから取消されるべきである。
(1)(1) 審決は、前記相違点について判断するに当たり、「従来リン酸鉄系皮膜法においてアルカリ金属の酸性リン酸塩を主成分とし、これに酸化剤として臭素酸アルカリ塩を添加し皮膜化成を促進することは、第2引用例をあげるまでもなく、当該技術分野において周知の事項であるから、本願発明のように前記主成分に加え各所定量の副成分を含有する処理液に対し、酸化剤としての臭素酸アルカリ塩を添加することもその目的等に応じ当業者が適宜なしうるものと認められる。」と説示している。
審決摘示の事項が当該技術分野において周知の事項であることは争わない。しかしながら、本願発明の出願当時、鉄・鋼板に対するリン酸鉄系皮膜法において、酸化剤として臭素酸アルカリ塩を添加すると、皮膜化成を促進する効果がある反面、皮膜の耐食性に悪影響を与えるものと考えられていた。すなわち、第1引用例には、「本発明者は本発明の表面処理剤に種々の量のNaNO3及びKBrO3を添加して耐食性の変化を測定したところ、これら酸化剤の添加が耐食性に悪影響を及ぼすことを確認することができた。」(第3欄第1行ないし第5行)と記載され、第1引用例記載の発明において耐食性が改善される理由の1つは、「市販されている表面処理剤に皮膜化成効果その他を目的として添加されるNO3塩、ClO3塩、BrO3塩などの如き酸化剤が含まれていないことにある。」(第2欄第36行ないし第3欄第1行)と記載されている。また、第2引用例には、明細書の項の発明の詳細な説明中に、前記従来技術の内容に関する説明が記載されていると共に、臭素酸アルカリ塩等の酸化剤を加えた従来技術のリン酸鉄系皮膜法の欠点の1つとして、「処理液を継続的に使用していると皮膜が粉状となるようになり、これは塗膜の密着性を阻害し塗面の外観を損ずるばかりでなく塗装後の耐食性も劣化させてしまうという不都合さがあつた。」(第239頁右欄第15行ないし第19行)と記載され、このため第2引用例の明細書の項の特許請求の範囲記載の発明においては、臭素酸アルカリ塩等従来使用されている酸化剤に代えてヒドロキシルアミン塩を使用し、同時に耐食性を向上させるためヒドロキシカルボン酸を添加している。
このように、本願発明の出願当時のリン酸鉄系皮膜法においては、臭素酸アルカリ塩等の酸化剤は皮膜の耐食性に悪影響を与えるところから使用されない傾向にあつた。これに対し、本願発明は、リン酸鉄系皮膜の耐食性の改善を図ることを目的の1つとして掲げ(本願明細書第4頁第6行、第7行)、その耐食性に悪影響を与えるとされていた臭素酸アルカリ塩をリン酸鉄系皮膜の耐食性の改善を図るのに必須のものとして添加して成ることを特徴とするものであり、このような組成物が当業者において容易に推考できるとはいえない。
本願発明者は、リン酸鉄系皮膜の耐食性に悪影響を与えるとされていた硝酸塩、塩素酸塩、臭素酸塩等の酸化剤について実験と研究を重ねた結果、臭素酸アルカリ塩のみがこれを第1引用例記載の表面処理剤に所定割合で配合することによりその耐食性の改善を図ることができることを見出し、本願発明を完成するに至つたもので、これにより本件出願当時存在した技術的構成の困難性を克服したものである(このことは、表面処理剤中に配合される酸化剤の種類とリン酸鉄系皮膜の耐食性との関係を示す実験データ((甲第15号証))と本願明細書等に示された実験データを対比することにより明らかである。)。したがつて、酸化剤としての臭素酸アルカリ塩を添加することは当業者が適宜なしうるものとした審決の判断は誤りである。
(2) 更に、審決は、「酸化剤としての臭素酸のアルカリ塩の添加量を限定した点について、明細書中にはその限定理由として、下限値未満では添加効果がうすく、上限値を超えて多量に使用してもそれに伴う格別の効果がない旨記載されているとおり、単に添加効果を達成しうる経済的な量に限定したにすぎず、このような添加量の限定に格別の技術的意義があるとは認められない。」と説示している。
本願明細書(第5頁第12行ないし第16行)には、審決の摘示した記載があることは認める。しかしながら、本願明細書は、臭素酸アルカリ塩添加量と皮膜の耐食時間についての関係図表(昭和55年9月19日付手続補正書第5頁ないし第8頁)を示したうえ、「以上の結果から明らかなように、リン酸アルカリ塩―メタリン酸―モリブデン酸アルカリ塩混合物100重量部あたり5~15重量部のNaBrO3を含む本発明表面処理剤で処理して形成された皮膜は良好な耐食性を示す。特にNaBrO3含量が11.2~15重量部である場合(処理液e~P)に、優れた耐食性皮膜が形成される。」(前掲手続補正書第8頁本文第1行ないし第7行)と記載しているから、本願発明において臭素酸アルカリ塩の添加量を限定した技術的意義は本願明細書の記載から明らかである。そして、臭素酸アルカリ塩の添加量とリン酸鉄系皮膜の耐食性との関係を示す試験データ(甲第8号証)から明らかなように、臭素酸アルカリ塩の添加量が5重量部以下では耐食効果がなく、5重量部以上になると耐食性の向上がみられ、特に約13~14重量部で最も良好な耐食性を示すが、15重量部を超すと、急速な耐食性の低下が認められる。また、配合成分とリン酸鉄系皮膜の耐食性との関係を示す試験データ(甲第9号証)から明らかなように、本願発明の特許請求の範囲記載の所定割合のリン酸アルカリ塩、メタリン酸、モリブデン酸アルカリ塩の3成分の混合物に対し臭素酸アルカリ塩を配合することによつてはじめて低温域において顕著な耐食性が認められるのである。
したがつて、本願発明において臭素酸アルカリ塩の添加量を5~15重量部と限定したことには充分な技術的意義があるから審決の前記判断は誤りである。
(2) 本願発明の出願当時のリン酸鉄系皮膜法は、その前提となる2MeH2PO4MeHPO4+H3PO4式で示される解離が処理温度45℃以下では不充分で皮膜が形成されない(第2引用例の第242頁右上欄第6行、第7行)等の理由により、高温、例えば、第1引用例記載の発明では60~70℃(第3欄第34行ないし第36行)、第2引用例記載の発明では45~70℃(第242頁右上欄第5行、第6行)で行われていた。
これに対し、本願発明の表面処理剤は、室温、すなわち加温することのない常温(代表例として、約20℃程度)又は僅かに加温された程度という低温域において使用して優れた耐食性皮膜が得られるという顕著な作用効果を奏するものであつて、本願明細書(前掲手続補正書第1頁第3行ないし第9頁第4行)には、実施例4として、約5~30℃という低温域において、かつ1~3分間という短時間の処理によつて最も優れた耐食性皮膜が得られることが記載されている。
審決は、本願明細書の実施例1の表中の本願発明と第1引用例記載の表面処理剤の高温域の処理温度が近似したもの(前者の処理温度58~60℃及び65~70℃、後者の処理温度60~70℃)の耐食時間を対比して、(ほぼ同様な耐食効果を示すから、両者には発明の効果においても格別の差異が認められない。」と説示している。
しかしながら、本願発明の目的は、処理液の加温エネルギーを必要としない低温域において処理して皮膜の耐食性を改善することにある(本願明細書第4頁第6行ないし第9行)から、その効果についても、主として低温域の処理温度における皮膜の耐食性をもつて判断すべきである。そして、第1引用例記載の表面処理剤は室温で使用すると皮膜形成が充分に行われない欠点があり、低温域で使用して優れた耐食性を示す本願発明とは顕著な差異がある。このことは、処理温度とリン酸鉄系皮膜の耐食性との関係を示す試験データ(甲第7号証)によれば、5~30℃の低温域において両発明の表面処理剤を用いて鉄鋼板表面を処理し、その表面に形成される皮膜の耐食性を耐食時間に基づいて対比すると、第1引用例記載の表面処理剤では処理温度60~70℃で耐食時間47時間であつたものが30℃では22時間に減少し、5℃では殆ど実用に供しえない程度の時間にまで減少しているのに対し、本願発明の表面処理剤は58~60℃の比較的高温域で処理しても耐食時間47時間という可成りの耐食性を示しているが、特に5~30℃という低温域における処理では耐食時間平均60時間以上というきわめて優れた耐食性を示していることから明らかである。
また、審決認定の「酸化剤としての臭素酸アルカリ塩を添加したことにより皮膜化成の促進とともに加熱に匹敵する効果が生じ処理温度の低下がもたらされる」という現象が認められるとしても、皮膜化成反応の促進と皮膜の耐食性改善とは無関係であり、この現象から本願発明における低温域の処理温度で優れた耐食性を有する皮膜が形成されるという効果を予測することはできない。かえつて、第2引用例の記載(特に第240頁左下欄第3行ないし第8行)に従えば、臭素酸アルカリ塩のような酸化剤を添加した場合、耐食性の劣化が予測されるのであつて、低温域における皮膜の耐食性向上を予測することは容易になしうることではない。
第3被告の答弁及び主張
1 請求の原因1ないし3の事実は認める。
2 同4の審決の取消事由の主張は争う。
審決の判断は正当であつて、審決には原告の主張する違法はない。
(1)(1) 従来、リン酸鉄系皮膜法において、アルカリ金属の酸性リン酸塩を主成分とし、これに酸化剤として臭素酸アルカリ塩を添加し皮膜化成を促進することは、当該技術分野において周知の事項であるから、第1引用例に開示されたリン酸アルカリ塩を主成分とし、メタリン酸及びモリブデン酸アルカリ塩を副成分とするリン酸鉄系の表面処理剤の場合にも酸化剤としての臭素酸アルカリ塩の添加は任意に適用することができる。したがつて、本願発明のごとくリン酸鉄系皮膜法において酸化剤としての臭素酸アルカリ塩を添加することはその目的等に応じ当業者が適宜なしうるものというべきである。
原告は、第1引用例及び第2引用例には酸化剤の添加が皮膜の耐食性に悪影響を及ぼす旨の記載があり、本願発明の出願当時リン酸鉄系皮膜法において酸化剤が使用されない傾向にあつた旨主張する。
第1引用例には酸化剤を添加する旨の積極的な示唆はないが、硝酸ソーダ及び臭素酸カリの添加について記載され、また、第2引用例にはリン酸鉄系表面処理剤に対して酸化剤として塩素酸塩、モリブデン酸塩とともに臭素酸塩を添加することが明記されている。酸化剤の添加の目的は、第2引用例(第239頁右下欄第9行ないし第13行)にも記載されているように皮膜化成の促進にあり、同一処理条件では皮膜化成率を向上させ膜厚の大きな皮膜を形成させ、ひいてはこれが耐食性の改善にもつながるから、耐食性の向上を図る目的で酸化剤を添加することは、第1引用例及び第2引用例に充分に示唆されているというべきである(原告が援用する実験データ((甲第15号証))には、本願発明に係る臭素酸アルカリ塩を添加した実験例の記載はなく、本願明細書の実験データを参照しても、両データの皮膜重量の差異が大きく、同一の処理条件のものか疑わしい。)。
(2) 原告は、酸化剤としての臭素酸アルカリ塩の添加量を限定したことに充分な技術的意義がある旨主張する。
しかしながら、臭素酸アルカリ塩の添加量は、本願明細書に記載のとおり、単に添加目的に応じ添加効果を達成しうる有効量を限定したものであつて、この点に格別な技術的意義は認められない。
(2) 原告は、本願発明は、低温域において使用して優れた耐食性皮膜が得られるという顕著な作用効果を奏するものである旨主張する。
しかしながら、本願発明は耐食性皮膜形成のための「表面処理剤」そのものの発明であり、発明の本質はあくまでも「物」にあるから、その効果はこの処理剤を使用して得られた皮膜の耐食性について検討すべきである。
ところで、皮膜の耐食性は、処理条件が同一である場合を比較すべきであるが、本願明細書中の実施例1の表には、本願発明と第1引用例記載の表面処理剤との処理温度と皮膜の耐食性との関係が記載されており、同表中処理条件(特に処理温度)が同一ないし近接したデータだけを比較すると、両者の間に格別の差異は認められない。
仮に、本願発明において、第1引用例記載の発明に比し処理温度の範囲が低温域まで拡大されることが本願発明の作用効果であるとしても、この効果は、一般に処理温度と皮膜化成反応速度とは比例関係にあるため酸化剤としての臭素酸アルカリ塩を添加したことにより皮膜化成反応が促進される結果、所望の反応速度を得るに要する処理温度が必然的に低下することに他ならない。したがつて、酸化剤の添加により加熱に匹敵する効果がもたらされ、処理温度の範囲が低温域に拡大されることは容易に予測しうる事項であり格別顕著な作用効果とはいえない。
第4証拠関係
証拠関係は、本件訴訟記録中の書証目録記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。
理由
1 請求の原因1ないし3の事実は、当事者間に争いがない。
2 そこで、原告主張の審決の取消事由の存否について判断する。
(1)(1) 成立に争いのない甲第3号証によれば、第1引用例記載の発明は、鉄製品用の表面処理剤に関するものであつて、鉄製品に対する表面処理は、表面に付着した汚染物の洗浄、それを空気中に放置するような場合の耐食性の改善、塗装を容易にするための塗装下地の形成等を目的として行われるが、従来の表面処理剤はリン酸塩を主成分とし、場合によつては界面活性剤を含んで構成され、鉄製品の表面にリン酸鉄を主成分とする皮膜を形成するものであるが、この皮膜は耐食性が十分でなく、かつ脱脂、皮膜化成及び水洗(処理後に鉄製品に付着する沈殿物を洗浄する。)の3工程を必要とするという欠点を有するので、これらの欠点を除去し、「1工程で洗浄および防錆処理を施し得る効果を示し、処理後に水洗等を行わなくても可成りの防錆効果を示す表面処理剤」(第1欄第38行ないし第2欄第3行)を提供することを目的とした「リン酸アルカリ塩70~95重量%、メタリン酸1~15重量%及びモリブデン酸アルカリ塩0.1~3重量%の混合物に適量の界面活性剤を配合して成るリン酸系の組成物である。」(第2欄第10行ないし第14行)ことが認められる。
一方、成立に争いのない甲第2号証及び甲第5号証によれば、第1引用例記載の表面処理剤は前記効果を奏するものであるが、これを含めて従来の表面処理剤が「いずれも室温(約20℃)で使用すると皮膜化成が充分に促進できないため、処理時に加温しなければならず、加温するために多大のエネルギーを用いなければならなかつた」(本願明細書第4頁第1行ないし第5行)欠点を有しているので、本願発明は、「改善された耐食性を有すると共に、室温で又は僅かな加温のみで使用が可能なリン酸鉄皮膜処理剤を提供することにより、エネルギーの節約を計ること」(同頁第6行ないし第9行)を目的とし、第1引用例記載の表面処理剤に臭素酸アルカリ塩を添加して成る組成物が右目的に適うものであることを見出し、前記本願発明の要旨を構成要件としたものであることが認められる。
したがつて、第1引用例記載の発明と本願発明とは、主に耐食性の改善された鉄製品用の表面処理剤の提供を目的とする点において共通するものであるが、本願発明は更に第1引用例記載の発明を改良し、室温又は僅かな加温のみで使用することができるよう第1引用例記載の表面処理剤に臭素酸アルカリ塩を添加して成る組成物としたものということができる。
ところで、従来リン酸鉄系皮膜法においてアルカリ金属の酸性リン酸塩を主成分とし、これに酸化剤として臭素酸アルカリ塩を添加して皮膜化成を促進することは、当該技術分野において周知であることは、当事者間に争いがない。
審決は、右周知の事項に基づき、本願発明の処理液に対し酸化剤としての臭素酸アルカリ塩を添加することは、その目的等に応じ当業者が適宜なしうるものと認められると説示している。
しかしながら、本願発明の主たる目的の1つは、前述のとおり耐食性の改善された表面処理剤を提供することにあるところ、酸化剤として臭素酸アルカリ塩を添加して皮膜化成を促進することが周知だからといつて、臭素酸アルカリ塩を添加すれば当然に耐食性が改善されることにはならない。かえつて、前掲甲第3号証によれば、第1引用例には、「本発明の表面処理剤において耐食性が改善される理由は、(中略)更には市販されている表面処理剤に皮膜化成効果その他を目的として添加されるNO3塩、ClO3塩、BrO3塩などの如き酸化剤が含まれていないことにある。」(第2欄第30行ないし第3欄第1行)、「本発明者は本発明の表面処理剤に種々の量のNaNO3及びKBrO3を添加して耐食性の変化を測定したところ、これらの酸化剤の添加が耐食性に悪影響を及ぼすことを確認することができた。」(同欄第1行ないし第5行)と記載されていることが認められ、右認定の記載事項からみて、第1引用例記載の発明においては、臭素酸アルカリ塩を使用することは耐食性に悪影響を与え、好ましくないとして排除されているから、この発明の改良に当たつて、臭素酸アルカリ塩を添加することは当業者が容易に想到することができなかつたものといわざるをえない。
被告は、酸化剤添加の目的が皮膜化成の促進にあり、このことがその耐食性の改善につながることを前提として、耐食性の向上を図る目的で酸化剤を添加することは、第1引用例及び第2引用例に示唆されている旨主張する。
しかしながら、第1引用例記載の発明は、前述のとおり、酸化剤の添加を好ましくないとして排除しているものであるから、第1引用例に、好ましくないとして排除している硝酸ソーダ及び臭素酸カリが記載されている(第3欄第2行)からといつて、同引用例に、耐食性の向上を図る目的で酸化剤を添加することが示唆されているといえないことは当然であり、また、成立に争いのない甲第4号証によれば、第2引用例記載の発明は、鉄・鋼板へのリン酸鉄系皮膜生成法の改良に関する発明であるが、第2引用例には、「リン酸鉄系皮膜法に用いる処理液の組成は(中略)近来はこれに酸化剤たとえば塩素酸塩、臭素酸塩、モリブデン酸塩、タングステン酸塩などを配合したものが出現しており、これら酸化剤は皮膜形成を促進し1~3分間で皮膜形成が完了する利点を有するものである。然しながら、従来の各リン酸鉄皮膜法の欠点の1つとして処理液を継続的に使用していると皮膜が粉状となるようになり、これは塗膜の密着性を阻害し塗面の外観を損ずるばかりでなく塗装後の耐食性も劣化させてしまうという不都合さがあつた。」(第239頁右欄第6行ないし第19行)と記載され、更に、右処理液で鉄鋼表面を処理しリン酸鉄系皮膜を形成する機構の基因となる化学反応式を示し、従来の処理液を継続的に使用すると粉状の皮膜を生成する理由を考察している(第240頁左上欄第9行ないし左下欄第8行)ことが認められ、右認定の記載事項は、酸化剤による皮膜化成の促進がその耐食性に悪影響を及ぼすことを開示していると解されるから、被告の右主張はその前提において誤つており、採用することができない。
したがつて、第1引用例及び第2引用例の記載に前記周知の事項を組合わせても、第1引用例記載の表面処理剤に、本願発明における臭素酸アルカリ塩を添加することは、当業者がその目的等に応じ適宜なしうるものと認めることはできない。
(2) 前記本願発明の要旨によれば、本願発明は、リン酸アルカリ塩を主成分とし、メタリン酸、モリブデンアルカリ塩を副成分とし、その混合物100重量部当たり5~15重量部の臭素酸アルカリ塩を添加するものであるが、審決は、右添加量は、添加効果を達成しうる経済的な量を限定したにすぎず、その限定に格別の技術的意義があるとは認められないと説示しているので、この点について検討する。
前掲甲第2号証及び甲第5号証によれば、本願明細書の発明の詳細な説明中には、「臭素酸アルカリ塩の含有量は、前記の上限値を超えて多量に使用してもそれに伴う格別の効果がなく不経済であり、前記の下限値未満では皮膜量が低下するので、前記範囲に限定される。」(本願明細書第5頁第12行ないし第16行)と記載されているが、これに加え、実施例4として、本願発明の所定量の範囲内である、リン酸アルカリ塩(第1リン酸ナトリウム83.7重量%、第2リン酸ナトリウム6.3重量%)90重量%、メタリン酸9.4重量%、モリブデン酸アルカリ塩(モリブデン酸ナトリウム)0.6重量%の混合物に、臭素酸アルカリ塩(臭素酸ナトリウム)を該混合物100重量部あたり、(イ)5重量部、(ロ)8重量部、(ハ)11.2重量部、(ニ)13.1重量部、(ホ)15重量部を添加した表面処理剤を用いて調製した処理液(界面活性剤としてエマルゲンpp290を0.12g/lの濃度になるように添加)中において1ないし4分間試験片を浸漬して得られる耐食時間を実験した結果、その耐食時間は、前記(イ)の添加量の表面処理剤を用いた例において49時間、その余の例においては51時間ないし70時間に達したことを図表に示したうえ、「以上の結果から明らかなように、リン酸アルカリ塩―メタリン酸―モリブデン酸アルカリ塩混合物100重量部あたり5~15重量部のNaBrO3を含む本発明表面処理剤で処理して形成された皮膜は良好な耐食性を示す。特に、NaBrO3含量が11.2~15重量部である場合(処理液e~P)に、優れた耐食性皮膜が形成される。」(昭和55年9月19日付手続補正書第8頁本文第1行ないし第7行)と記載されていることが認められるから、本願明細書には、臭素酸アルカリ塩の添加量を限定した技術的意義が記載されているものということができる。そして、更に、成立に争いのない甲第8号証(青木孝作作成の臭素酸アルカリ塩の添加量とリン酸鉄系皮膜の耐食性との関係を示す実験データ)及び甲第16号証(青木孝作作成の右実験方法及び実験データに関する説明書)によれば、実施例4とほぼ同様の処理条件に基づいて行われた実験の結果、本願発明における所定量の範囲外である臭素酸アルカリ塩(臭素酸ナトリウム)18重量部の例では耐食時間47時間、20重量部の例では耐食時間35時間又は40時間であつて、15重量部を超えると、皮膜の耐食性が低下すること、また、前掲甲第16号証によれば、5重量部未満になると、反応促進の効果が薄れ、リン酸等の解離が不充分となり、皮膜の形成が困難になることが認められ、右認定事実によれば、添加量を5~15重量部に限定したことは、単に添加効果を達成しうる経済的な量を限定したにすぎないものではなく、充分な技術的意義があるというべきである。
(2) 前掲甲第3号証によれば、第1引用例記載の発明における表面処理溶液を適用する温度は、通常60~70℃であること(第3欄第34行ないし第36行)、また、前掲甲第4号証によれば、第2引用例記載の発明における表面処理剤溶液は、45℃以下では皮膜が形成されない一方、70℃以上ではアルコールの損失が大で皮膜形成反応もそれ程変らないため、50~60℃が最適温度であること(第242頁右上欄第5行ないし第9行)が認められ、右認定の各事実によれば、本願発明の出願当時のリン酸鉄系皮膜法においては、通常、室温(成立に争いのない甲第10号証の1ないし3によれば、室温とは、周囲温度、すなわち装置とよく熱的に接触している気体や液体など周囲を取り巻いている媒体の温度を意味するものと認められる。)よりも高く、相当程度加熱した程度で表面処理剤を使用していたものと認められる。
これに対し、本願発明は、前記(1)(1)において述べたとおり、改善された耐食性を有すると共に、室温で又は僅かな加温のみで使用が可能なリン酸鉄系皮膜処理剤を提供することにより、エネルギーの節約を計ることを目的とし、第1引用例記載の表面処理剤に所定量の臭素酸アルカリ塩を添加して成る組成物をもつて構成したものであるが、前掲甲第5号証によれば、本願明細書の発明の詳細な説明中に実施例4として示された耐食時間49時間以上という優れた効果は、処理温度5~7℃、10~12℃、15~17℃、20~22℃等の低温域において使用された場合を含むものであることが認められる。そして、前掲甲第2号証、第16号証及び成立に争いのない甲第7号証(青木孝作作成の処理温度とリン酸鉄系皮膜の耐食性との関係を示す実験データ)によれば、第1引用例記載の表面処理剤に相当する本願明細書の実施例1に示された処理液(その組成物の構成は、前記実施例4の本願発明の組成物から臭素酸ナトリウムを除外したものと同一である。)に、20~22℃、45~50℃、60~70℃及び77~83℃の温度で3分間浸漬して得られる試験片の耐食時間は、17時間、30時間、47時間及び45時間であることが認められ、前記実施例4に示された本願発明の表面処理剤の処理温度、耐食時間を第1引用例記載の表面処理剤に関する右実験結果と比較すると、本願発明の表面処理剤を5~22℃の温度範囲で使用して得られた皮膜の耐食時間(49時間以上)によつて表わされる耐食性は、第1引用例記載の表面処理剤を高低各温度範囲で使用して得られた皮膜の耐食時間によつて表わされる耐食性のいずれよりも優れているから、本願発明は、低温域で使用することにより加熱を省略することができ、このことにより熱エネルギーの節約ができる等の優れた効果を奏しうるものである。
そして、前掲甲第3号証によれば、本願発明の出願当時のリン酸鉄系皮膜法において用いられることがあり、第1引用例に皮膜に悪影響を及ぼすものとして記載されている酸化剤には、臭素酸アルカリ塩(BrO3塩)のほか、塩素酸アルカリ塩(ClO3塩)、硝酸アルカリ塩(NO3塩)などがあることが認められるところ、前掲甲第2号証、第16号証及び成立に争いのない甲第15号証(青木孝作作成の表面処理剤中に配合される酸化剤の種類とリン酸鉄系皮膜の耐食性との関係を示す実験データ)によれば、本願明細書の実施例1に示された主成分、副成分(その構成は前記実施例4と同一である。)に、硝酸ナトリウム又は塩素酸カリウムを各10重量部宛添加した表面処理剤に基づいて調製した処理液(甲第15号証記載の処理液(a)、(f)、(j)、(k))と、本願発明の臭素酸ナトリウム11.2重量部を添加した表面処理剤に基づいて調製した処理液(各処理液とも界面活性剤としてエマルゲンpp290を0.12g/lの濃度になるように添加)とを使用して得られる皮膜の耐食性について行われた実験結果(実施例1)によると、低温域の処理温度(前者では15~17℃、後者では20~22℃)における耐食時間は、前者が5時間であるのに対し、後者は49時間であり、高温域の処理温度(前者では77~82℃、後者では65~70℃)における耐食時間は、前者が7時間であるのに対し後者は40時間であることが認められ、前者と後者とは、酸化剤の添加量、処理温度の範囲に若干の相違があもののほぼ類似の処理条件下における実験ということができるから、前者と後者とにおいて耐食性に右のような顕著な差異が生じることに照らすと、本願発明は、第1引用例記載の表面処理剤に、第1引用例が皮膜に悪影響を及ぼすものとして記載している酸化剤のうち、特に臭素酸アルカリ塩を選択し、これをリン酸アルカリ塩を主成分とし、メタリン酸及びモリブデン酸アルカリ塩を副成分とする混合物100重量部あたり5~15重量部添加して成る組成物とすることにより、前記のごとき当業者の予測の範囲を越えた優れた作用効果を奏するものというべきである。
被告は、本願発明の本質は「物」にあるから、その効果はこの処理剤を使用して得られた皮膜の耐食性について検討すべきである旨主張する。
しかしながら、本願発明の表面処理剤が5~22℃の低温域において使用して、第1引用例記載の表面処理剤の最も大きい耐食性より更に高い耐食性を与えることができるということは本願発明の表面処理剤そのものの効果ということができ、また、本願発明は右効果を奏することにより熱エネルギーを節約することができるのであるから、「物」として十分に技術的意義を有するというべきである。
また、被告は、臭素酸アルカリ塩という酸化剤の反応促進作用を考慮すると、本願発明の低温域における作用効果も予測しうる旨主張するが、前述のとおり、第1引用例及び第2引用例には酸化剤の存在あるいは作用は皮膜の耐食性に悪影響を及ぼすことが開示されていること、及び酸化剤として硝酸アルカリ塩あるいは塩素酸アルカリ塩を低温域で使用しても耐食性のある皮膜が得られないことからみて、臭素酸アルカリ塩が酸化剤であるということによりもたらされる本願発明の奏する作用効果は当業者が予測することができなかつたところであることが明らかであるから、被告の右主張は理由がない。
(3) 以上のとおりであるから、審決は、本願発明と第1引用例記載の発明との相違点について判断するに当たり、本願発明において酸化剤としての臭素酸アルカリ塩を、リン酸アルカリ塩を主成分とし、メタリン酸、モリブデン酸アルカリ塩を副成分とする混合物に添加することが当業者にとつて容易に想到しうるものでない点、及び右臭素酸アルカリ塩を右混合物100重量部あたり5~15重量部に限定して添加することに十分な技術的意義がある点についての判断を誤り、かつ本願発明が第1引用例記載の発明に比して顕著な作用効果を奏するものであることを看過誤認した結果、本願発明は各引用例の記載に基づいて当業者が容易に発明をすることができたとしたものであり、以上の認定、判断の誤りは審決の結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、審決は違法として取消すべきである。
3 よつて、審決の違法を理由にその取消を求める原告の本訴請求は正当として認容し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法第7条、民事訴訟法第89条の各規定を適用して主文のとおり判決する。
(蕪山嚴 竹田稔 濱崎浩一)